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納豆製造者の納豆(菌)との出会い
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最終更新日 平成13年8月26日 納豆を製造されている方、納豆を販売されている方の納豆(菌)との出会い を語って頂いたページです。 三重県で急成長をとげている東京納豆、奥野食品株式会社、奥野敦哉様の納豆との出会いを青春記として語って頂きました。 納豆青春記(続きは後日頂戴します) えにし縁編
1.記憶のなかに
この道は国道23号線、伊勢から松阪へ至る道である。
直線が続く、先のことだけ考えていれば良い、物思いにふけることも許される、心地よい道である。久しぶりの運転は先へ先へと私をいざなう。この車には昔よく聞いたCDがのせてある。懐かしいあの曲は私が歩んできた日々を鮮やかに浮かび上がらせるのである。
私は伊勢の国、三重県松阪市の納豆屋に生を受けた。創業者の祖母、生真面目で厳しい父と努力家の母は納豆づくりに誇りを持ち、納豆屋の少ない三重という土地にあっての納豆中心の日常がいつしか物心つかぬ幼児を納豆職人を生業とする将来像があたりまえの少年へと育んでいった。大人になったら何になりたい?それぞれ級友たちの夢が描かれている、小学3年生の文集に納豆屋になりたいという拙い文章が今も残されている。
2.宿命の糸〜松阪から
納豆は良くも悪くも私の人生そのものである。1〜2歳の頃、工場内の水槽で溺れていたのを従業員のおばちゃんに助けてもらったこともある。幼い頃、会社慰安旅行で毎年色々な所へ連れていってもらったりもした。いたずらをした後、納豆冷蔵庫に放り込まれ閉じ込められ反省したこともあった。大豆倉庫は私の秘密基地だった。釜を見ていていつまでも飽きなかった…。私にとって一番楽しい遊び場所は納豆屋だったのである。大きくなるにつれてたくさん友人も出来、平穏なままに時は流れていったが、小学4年生のある時、自分の人生を考えるひとつの転機が訪れた。
納豆屋の人間として級友よりからかわれ、いじめに発展していったのである。その当時、クラス30人のうち納豆が好きな人数は5〜6人くらいだった時代、今のように納豆に市民権もなく、子供にとっては格好のいじめ材料だったのであろう。親の仕事をふがいない息子が汚している。誰にも相談できず、中学生になる頃には誰にも話しかけない硬い殻で覆われた心が出来あがっていた。
笑顔もやる気も希望さえも私から消え去っていたのである。
何をするのにも自信が持てず、ただ惰性で日々を繰り返す…卑屈な心は努力を拒み、何の根拠なく、ただ漠然と進学が出来るだろう、ただ何となく将来は家業を継がされるのだろう、せめて家業を潰さないように年をとり、死んでいこう…そんな思考が私の感情を支配していたのだった。しかし、そんな私でも、家族と納豆は見捨てる事をしなかった。家庭での納豆の話題は絶えず、納豆を身近に思い、納豆が食卓から消えたことはなく、納豆に支えられた体は徐々に丈夫になっていった。病気しない身体、健全な身体は健全な魂を少しずつ呼び戻し、中学3年間を無遅刻、無欠席に!そして体育部活動を通して友人達、恩師も、失ったはずの自信を私に蘇らせる力強い応援をしてくれたのである
・・「納豆屋!納豆屋!頑張れ!」と叫んで…。
人間としての情緒を取り戻した私ではあったが、納豆屋としての私を形成していくのは大学生活も後半にさしかかる頃の事になる。
その時期、運命のジクソーパズルは組み上げることを急かせる様にたくさんのピースをめぐり逢わせ、かみ合わせ、それまでに少しずつ集まっていたピースに意味を持たせつつあった。完成にはほど遠いが、作品のイメージを私の魂のまなこ眼に投影させていったのである。次項の黎明編では私に与えられたそれぞれのピースについて触れていきたい。
黎明編
1.歯車は動くか
オクノ、オクノマン、エッグマン、ショクヒン、ナットット…
これらは私が高校時代に級友から呼ばれたニックネームである。これら数ある呼び名の中に「社長(シャチョー)」というのがある。久しぶりに再会した友人からこの呼び名を聞いたとき、高校3年生の時のエピソードが脳裏に蘇った。
高校生活の大半を睡眠と弁当の時間に費やし、不良でもなく、模範生徒でもない、ただ体が丈夫なだけの目立たぬ学生であった私がその渦中に巻き込まれることになるとは考えてもいなかった。いや、考える頭も感覚もなかった〜高校3年生の文化祭でのことである。
受験勉強にいそしむ級友たちの文化祭への反応は鈍く、それは私も例外ではなかった。毎年、文化祭の前になると、納豆工場から出るダンボールを工作材料として学校へと提供していた流れで、その年も担任の先生に日程の打ち合わせに職員室へ行ったとき、「お前のウチは肉まん屋を知らないか?」と聞かれたのが始まりであった。
文化祭を何に打ち込むのか、研究の発表、美術作品の展覧、ステージ開催、お化け屋敷、食堂…色々あるなか、私達のテーマは"肉まん・赤福・かたやき を売ろう"であった。それぞれ三重県ゆかりの食べ物である。肉まんは三重県津市の井村屋が全国メーカーとして名を馳せている。赤福は全国に知らぬ者無しの伊勢名物、かたやきは伊賀忍者の携帯食としての伝統が生き続けている特産品である。商業高校でない普通高校において、商売の学習の場所は限られている、この機会に商売を経験しよう!とのことであった。が、しかし、このテーマも白熱して議論が交わされ決定した物ではない。何でもいいから早く決めろや、と挙手で何となく決まった様子であった。受験戦争を目前とした普通高校の生徒として、冷めた反応は当たり前の事であったのかも知れない。まして男子高校!甘酸っぱい生活は送れようはずがない。文化祭は受験生のする事ではないという空気がどことなく漂っていたのである。もちろん自分も含め、商いの道、荒波など知らぬ甘ちゃん連中である。数学の公式や英語の文法は知っていても商いのイロハは知る由がない。担任の先生も諦めて投げやりになっていたのだろう
〜私に声をかけたのである。
2.商人(あきんど)の資質
厄介な事になったとの気持ちのまま学校より帰宅し、文化祭の学級テーマが決まった経緯を父に話してみた。ボーとナマケモノのように寝ているか何か口に入れているかの将来性のカケラも見当たらない息子が担任の先生から任されることがあるなんて…と、よほど嬉しかったのであろう、間髪空けずに電話をかけ、有無を言わさず車に乗せられ行き先を告げず車を走らせた。友人であり、松阪の肉まん業界を仕切っているY商店のY氏宅に向かったのである。Y商店は井村屋の代理店であり、肉まん、あんまん、アイスクリームの卸問屋として現在も松阪を代表するあきんど商人の一人として君臨している。
父と私を乗せた車がY商店に到着するまでに親子で交わされた会話は何一つなかった。寡黙な父から何も情報がない、恐らく肉まんに関係する人物に違いは無いだろうが、前もって教えてくれても良さそうなものなのにと恨めしく思った。町から少し離れた古い店に到着した親子をY氏は精悍な顔を崩して「私がYだ。よろしく!」と笑顔で出迎えてくれたのだった。お茶をいただき、Y氏と父の世間話が落ち着いた後、父は息子が任された文化祭での役割を説明しはじめた。詳しくは息子からと今度は私が説明する事となった。そこに至るまでの次第を説明したが、まだY氏は自身の仕事を語らず、私はその時点でこの人物が何を生業にしているのか判らないままだった。つまり、事の次第は客観的に説明しなければならない状況となっていた。感情のみの説明はせず、理屈で遊ばず、ただ何が起ころうとしているのか、何が求められているのか、どのようになれば理想なのかを説明しなければならなかった。それは私、自分自身への確認、状況整理でもあった。
目の前の私が自分自身との対話を終え、腹に落ちていったのを見計らって、それまで聞き役であったY氏は一転、商いの仕組みを私に教え始めたのだった。自分から社会勉強をおろそかにし、それまで「生産者の場所」で格闘している親に甘え安全な場所で保護してもらっている「ただの消費者」でしかなかった私は「流通」というものを初めて現実(リアル)に感じたのである。生産者の立場からの視野だけなく消費者の気持ちも感じる、結びつけるのが「流通」。そしてお客様の喜びが即ち「あきない商い」。それは水が上から下へ流れるように自然なこと。喜び無き取引は不自然な交換。不自然は身を滅ぼす…。
Y商店の強味の全容、Y氏の実行力の範囲などを説明してもらい、具体的な話し合いを進めた。肉まんを安く仕入れて蒸し上げ器も無料で貸してくれるという好条件で話は固まり、事務所を出ようとしたその時、一枚のパンフレットが私の目に飛び込んできたのである。
以下、続く・・・・・・・
鎌倉山納豆として有名な野呂剛広様の、こだわりの納豆を造り続ける 命の源・・・水、空気。大豆の品質を見抜く目、丁寧な手作業・・・。 医薬品の他にも健康食品を手がけ、納豆菌を利用した栄養補助食品を 私の会社は病院に薬を納める医薬品専門商社です。会社を始めて三十三年になりますが、二十数年前よりお薬を飲まれている患者さんのある変化に気が付き始めました。 ![]() 「ザ・なっとう」を販売されているエイミュウコーポレーション、 今湶様の納豆との出会いです。 当社はそもそもイタリア、ブラジルからの輸入販売、国内の広告代理業、を行っております。商品のコンセプトは「会社名がないので、お客様に絶対後ろ指を指されない商品の供給」です。 |
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