最終更新日 平成14年4月9日
茨城県水戸市といえば納豆、そのなかでも特に知名度の高い「天狗納豆」ブランドの秘密を探ろうと、平成12年11月4日、笹沼五郎商店さんの「納豆展示館」にお邪魔しました、伝統の藁つと納豆をメインに販売されているだけあって、藁をたっぷり積んだトラックが行き交うなか、早速、笹沼五郎商店さんの工場二階にある「納豆展示館」に向かいます。
「納豆展示館」は、20人程度が入れる会議室の大きさで、明るい雰囲気。水戸納豆が有名になったことや、納豆の造り方、納豆料理の紹介などが展示されております。
水戸と納豆のかかわりとして、納豆発祥の伝説のなかで最も有名な八幡太郎義家の納豆ロード伝説が、こう紹介されておりました。永和3年(1083)、八幡太郎義家が奥州平定に向かう際、家来の一人が馬の糧である煮豆を藁に入れておいたところ、発酵した。食べてみたところ大変美味しく、八幡太郎義家にも喜ばれたので、「将軍に納めた豆」、納豆ができた。そして、目的である「天狗納豆」ブランドについても説明パネルがありました。
現在のように「水戸といったら納豆の本場、水戸納豆」と全国的に有名になったのは、実は明治時代以降のことで、その立役者が笹沼五郎商店さんの創業者でもある、笹沼清左衛門(1854〜1920)です。水戸郊外の吉田村米沢郷、現在の水戸市米沢町に生まれた彼は、水戸でなんとか有名なお土産を作れないかと思っていた明治17年(1884)、ふと読んだ古文書に「江戸で好んで食べるものに絲引き納豆と言うものあり」という記述を見つけます。「これ、イケるんでないかい?」と言ったかどうかは分かりませんが、その後は一直線に行動。近代納豆の聖地と言われる宮城県は仙台に向かい、製造技術を学んだのち、テクニカルパートナーとして、納豆職人の阿部寅吉を連れて水戸へ戻ります。当時の納豆の製造技術は、まだ科学的、合理的に汎用化されてはいませんから、何度も失敗をしながらも、まさに「粘り強い」努力で、商品化に成功。明治22年(1889)、水戸市柵町で開業し、商品化した納豆を「天狗納豆」と名づけます。天狗納豆の由来は、1.天狗のように元気になる納豆2.天狗党にちなんだ*天狗党水戸藩内で尊王攘夷を唱えた人々で当時のメンバーは約700名。だそうです。そして、同年に開通したばかりの水戸線(水戸−小山)水戸駅、駅前広場、ホームで観光客に水戸土産として販売したところ、これが大人気。水戸駅開業と水戸の市制施行での盛り上がりもありましたが、それよりは「水戸の梅」がすでに有名だったことから、観梅客が多かったことが良い方向に働いたのではないでしょうか。またパネルの説明によれば、「家計を支えるため、納豆売りの少年達の手によって売られ・・」ともあります。ウッウッ、ウッ(涙)、けなげでございます。その後は、皆さんがご存知のように「水戸といえば納豆」と言われるほどに普及していきました。また、戦後になって冷蔵技術、機械がでてくるまでは熱い時期に納豆造りはできず、すだれ作りを行っていたそうですから、製造に関しては以下のような歴史のようです。明治22年〜昭和18年 年の半分だけ納豆を製造、あとはすだれ作り昭和19年〜昭和22年 食料難で製造中止昭和20年後半〜 業務用冷蔵庫の登場により通年製造天狗納豆、そして水戸納豆の歴史の一部を知ることができたのですが、それ以上に創業者である笹沼清左衛門さんの納豆にかけた熱い情熱を感じることができました。その情熱、是非、見習っていきたいと思います。