まっつぁかで人情を知る

最終更新日 平成14年4月4日

 平成11年8月2日、三重県松阪市の「東京納豆」奥野食品さん
奥野専務にご案内して頂いて、松阪城跡に行きました。
 
 松阪城は、天正16年(1588)に蒲生氏郷が築城したそうですが、
いまは石垣しか残っておらず、公園として残されています。
 ちなみに、松阪という地名も氏郷がつけたもので、仕えていた
秀吉の「大阪」から「阪」、好きな字である「松」「松阪」から
命名したそうです。
 氏郷は、本当に「松」の字が好きだったようで、会津黒川に移って
からは、会津「若松」としたぐらいです。奥野さんから頂いた
 
 『松阪商人 知恵は富なり』社団法人 松阪青年会議所
 『歴史漫画 三井高利のすべて』社団法人 松阪青年会議所
 
には、氏郷の幼名が「鶴千代」だったため、鶴とくれば松、松と
くれば鶴ということで、「松」の字を多用したとあります。
 ただ、会津若松の件に関しては、自分の故郷「日野」の「若松の森」
にちなんで会津若松にしたという説もあります。
 
 松阪城跡をゆっくりと上っていくと、歴史民俗資料館が見えて
きました。「ようし、歴史を学ぶぞー!」と意気揚々と近づくと
・・・ガーン!休館日
 気を取り直して、同じ松阪城跡にある本居宣長記念館に歩いて
いくと・・・ガーン!ここも休館日
 奥野さんと「仕方ないですね」風に会話をしていると、玄関に
座り込んで、本を読んでいた初老の男性が話しかけてきました。
 
 「あんた、遠くからきたぁ」
 「ええ、新潟からです」
 「新潟かぁ、オレも佐渡に何回もいったなぁ」
 「どちらからいらっしゃったんですか」
 「オレは北海道でさぁ・・・あんた明日またくれば」
 「いえ、明日名古屋と長野によるんで、朝早くでちゃうん
  ですよ。見られるとすれば、今日だけだったんでぇ・・」
 「長野?長野で遊ぶときは気を付けた方がええで。
  あそこはエイズだから、エイズ、多いぞ!」
 「えっ・・・」
 
 奥野さん、三井田そろって「ヤバイな、この人」という表情。
 
 「あ、ああ、そうなんですか。(沈黙 約10秒)
  ・・・そ、それでは失礼致します」
 
 長野県=「エイズ」と断言する初老の男性に別れを告げ、地元
スーパーをまわりながら、「松阪商人の館」を目指し、歩きまわって
いると、ドーッと大雨が降ってきました。
 あわてて近くにあった地元のスーパー「フレッシュフードもろと」
に入り、ジュースを1本ずつ買って、雨宿り。

 しばらくするとレジにいたおばちゃんが、
 
 「やんどくまで待っとんなぁ」
               (雨がやむまで待っていれば)
 
と温かい言葉をかけてくれました。その後は、松阪言葉講座から
 
 「松阪での醤油はたまりと言う」
 
という話で盛り上がり、さらには魚売場の板さんも話に加わっ
て、
 
 ・「こうなご」は、なぜ「子女子」と書くのか
 ・ちりめんじゃこの「じゃこ」の語源は雑魚?
 
と深く楽しくお話は弾んでいきました。
 だいぶ時間も経ち、そろそろ行かなくてはということで出口に
向かうと、店の方が傘を出してきて、私と奥野さんに渡してくれ
ました。
 
 「使い終わったら、ほっとってええから、な」
          (使い終わったら、捨てていいから)
 
 たかがジュースしか買わない客に傘をくれたおばちゃん。
 ありがたいことです。人情を感じます。
 そういえば、こういうやさしい世話焼きおばちゃんを、最近は
見なくなりました。
 まだ私が小さかった頃には、同じ町内というだけで、他人なの
に色々世話を焼いてくれる、やさしい近所のおばちゃんがいて、
冬場に薄着で町内をふらふらしていると、
 
 「孝欧ちゃん、雪降ってきたから、これ着てきなさい」
 
とアノラック(防寒着)を着せてくれたものでした。
 
 松阪で人の温かみを知るとともに、以外にも小さかった頃の環
境の良さを再認識した三井田なのでした。
 
 「思ひきや 人のゆくへぞ定めなき
        わがふるさとを よそに見んとは」
                       蒲生氏郷

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